まず思考が、次に感覚が、最後に言葉が解放された。
何を考えてもよい。
何を感じてもよい。
何を書いてもよい。
そういう順番で解放され、自由の季節がきた。
ただ、谷川氏の詩編に涙流したのは、間違いなくそのときの自分の全人格を超えた何かだった。私はその何かを無名の怪物と呼んだ。脆い、と感ずるのはこの怪物のことなのだ。
この怪物は私の肉体と精神を喰らい、成長する。ところが、実際ひ弱な奴で、いつ死んでしまうのか知れず、あるいは私という食べ物に飽きてどこかへ行ってしまうかもしれないのだ。
これから私は自分を解体し、世界を解体し、真実をつかまえてそれを言葉にしていかねばならない。わずかに見えたことがある。世界という格子をほんのわずかにずらすとそこにすきまが生じ、そのすきまに真実が転がっている。ただ、怪物のみが世界を(私を)解体する力を持っている。同時に、つかまえた真実をこちら側に言葉として持ち帰るのは私しかできない。
怪物と私の存在の均衡が、この上なく脆いのである。自分を超えた怪物が世界を解体すると同時に私を食い尽す。怪物に自分を与えつつ、飼いならす。一瞬の後に何一つ感じなくなってしまうかもしれない。何かを恐れ、ほんのわずかでも抑制したとたん、止まってしまうかもしれない脆さを、私は恐れてはならない。
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oretasakana (日曜日, 27 11月 2011 01:20)
文中の谷川氏とは無論、谷川俊太郎氏である。そのとき読んでいたのは、詩集「定義」の「世の終わりのための細部」である。そのとき泣いたなにかは、今も泣いている。
oretasakana (日曜日, 27 11月 2011 11:24)
もう少し補足しておきたい。「脆い怪物」は、詩作品とは言えない。ここに、「折れた魚」の冒頭に掲げたのは、自分の詩精を見つけたときのことを書いていたからである。いわば、詩人宣言である。